チャールズ・オーバビー経歴書
=人があまり通らない方の道=

80年の人生を振り返るとき、この詩が耳にこだまする。
二つの道が森の中で別れた 
私は人があまり通らない方の道を選んだ
それが大きなちがいを生んだのだった
——通らなかった道——
(ロバート・フロストの有名な詩の一節より)

以下、要約(文責たかだ洋子)
1926年、モンタナ州で生まれた。ノルウェーからの移民で経済的には豊かではない両親のもと、6人兄弟であった。私はただ、飛行機に憧れ、若くて無知だったために、アメリカ空軍の志願兵となり、第二次世界大戦の終わり、原爆の大虐殺のときは、B29の訓練を受けていた。そのまま戦争が終わらなければ、日本を空爆することになっていた。

戦後、GIビルという名の復員兵への奨学資金を受け、ミネソタ大学で機械工学の学士号を受け、学内の予備将校訓練講座を終え、1950年アメリカ空軍の少尉に任官した。朝鮮戦争に召喚され、パイロットに志願し訓練の後、朝鮮戦争最後の6ヶ月間、B29に乗って、沖縄の嘉手納空軍基地から北朝鮮に爆撃した。

朝鮮戦争後、しばらく民間企業で働いた後、自分は、機械工学以外の、人生にまつわるあらゆることについては完全に無知な人間であったと自覚し、ウイスコンシン大学の大学院に入り1959年に機械工学の修士号、1965年に、学際間の哲学博士号を取得した。

このウイスコンシンでの8年間に自分はとても感謝している。妻と二人で3人の娘を育て始めた(皆とても立派に育ってくれた)。朝鮮戦争後の自分の心を落ち着け、気を取り直し、視野を広げることができた。機械工学だけでなく、自分は、経済学、政治科学、歴史、心理学、そしてメディカルスクールの生理学(人間的要素の工学)、哲学、さらに、倫理、国際関係論、産業関係論、国際社会経済開発、そして、ロースクールで法律も学んだ。ウイスコンシン大学の豊かなアカデミックな環境のおかげで、自分は成長し、“人があまり通らない方の道”へと、人生を進めた。

その後、マジソンのウイスコンシン大学、コロンバスのオハイオ州立大学、アセンズのオハイオ大学などで、工学部の教職。シアトルのワシントン大学、ワシントンDCの工学部生のためのワシントン・インターンシップ、工学ならびに公共政策プロジェクト、愛知の中部大学、上海機械工科大学、モンタナ州ボズマンのモンタナ州立大学などで客員教授。現在はオハイオ大学名誉教授。

70年代後半、アメリカ議会のテクノロジー査定局(OTA=オフィス オブ テクノロジー アセスメント)で、環境問題と資源の保全の分野で働いた。そこでの自分の専門は、わが国の資源消費の法外さを調べることになり、改善のための政策提言を行った。

1980年には、ワシントンDCの工学部生のためのワシントン・インターンシップが始まり、今も継続している。これは、全米から優秀な工学部生が15名選抜され、“公共政策エンジニア教育”についてのプログラムを履修するもので、私は、この意味のある社会的な発明品の、その初代担当教授を務めた。

82年には、レーガン政権の軍拡競争促進を許すことができずに、オハイオ州から民主党の連邦下院議員の予備選挙に平和を訴えて立候補したが、落選した。私の市民としての権利行使に対して、私の所属する学部チェアマンや工学部長は、経済的に大変大きく私を罰した。

1991年、“石油資源のための湾岸戦争”が終わったとき、私は考え方を同じくするオハイオ州アセンズのユニテヤリアン教会の仲間達と力を合わせ、第9条の会(A9S)を発足させた。A9Sは、「日本国憲法の戦争放棄の第9条の保存」と、最終目標は「地球上の全ての国が第9条の原理を採用する」ために働く組織です。  (石油資源戦争について、また、第9条の会については「対訳地球憲法第9条(A CALL FOR PEACE)オーバビー著、國弘正雄訳、桃井和馬写真、たちばな出版」を参照してください)

私は第9条の英知を知らせるために、日本の各地、そして、世界で講演をしています。最近のものでは、2003年秋に6週間、2005年夏に3週間、日本で。そして、2005年の5月には、スペインのゲルニカで開かれた国際平和博物館会議に、第9条のことを伝えに行きました。(www.article9society.orgには、各々の講演論文、その他を読むことができます)

日本の若者が主催する「ピースボート」、世界の海を回りながら、戦争や暴力、人権侵害や環境破壊の傷跡を訪ね、乗客が学ぶものですが、講師として何回か乗船しました。私は、日本国憲法第9条の、重要性、その美しさ、その知恵について、そして日米の両政府がそれを破壊しようとしている動きについて講義するとともに、“資源のための戦争”を防ぐ1つの方法として、GTBD(設計によるグリーンテクノロジー)に関連したテーマについても話しました。2000年にはピースボート地球大学の顧問委員会のメンバーになりました。

もう1つの私の関心は、資源戦争を防止するために各国が参加する様々な活動の1つとして、そして人間として避けられない紛争を解決するための非暴力の方法として、「環境」と仲直りをすることです。1995年にこの分野で著述をしました。「持続可能な発展のための工学教育のための1つの新しい範例:設計によるグリーンテクノロジー」(a chapter in ミFreeman, Puskas,& Olbina, Cleaner Technologies and Cleaner Programs for Sustainable Development, Springer-verlag, New York, 1995)

私は、祖国アメリカの、世界のリーダーとしての道の、批判者です。私は、アメリカ市民として多くの機会に恵まれたことを大変深く感謝しています。しかし他の多くのアメリカ市民と同じく私は、私達を育てたこの国を更に良くしたいと思います。独立宣言の(女性と黒人とアメリカ先住民は除外されてはいますが)全ての人は平等だという言葉が好きです。そんな国になって欲しいと思います。しかし、1995年の本の中でシェリーが書いている、「1930年代以降アメリカは、市民社会それ自体が暴力を生産する組織になっている“軍国主義”国家だ」という言葉にうなずいてしまいます。

私自身が、シェリーが表現した文化による1つの生産物です。第二次大戦の復員兵のための奨学金(GIビル)で、学士号を取り、朝鮮戦争のGIビルで修士号を取り、ソ連が1957年にスプトニクを打ち上げたことから来る科学技術教育の国家予算で博士号を取得しました。ソ連に遅れまいとしてアメリカは莫大な国家予算を科学技術教育に振り向けました。そして更に、ここにはっきりと申し上げねばなりませんが、私は、ダンフォース基金にも、大変お世話になりました。ダンフォース教師奨学生として、“人があまり通らない哲学博士号の道”での最後の一年を財政的にも支援を受けました。これらの教育支援にとても感謝しています。しかし、何故、豊かなアメリカで、能力ある若者が誰もがこのような支援を受けることができないのでしょう?軍隊と何らかの関わりがないと出来ないのでしょう?シェリーの言葉を私はこのように理解しています。今もそうです。多くの貧しい若者が大学に行くために軍隊に入ります。2003年、破廉恥な湾岸石油資源戦争で、ジェシカ・リンチ兵士事件がありましたが、彼女はウエストバージニアの経済的に貧しい家庭の出身で、大学に行きたかったから、とにかく軍隊に入ったのです。

もと奴隷の黒人はアメリカの人口の12%しかいません。しかし、戦争が戦争である限り存在する“虐殺や破壊”をやってもらう兵隊達の33%が彼らです。全てのマイノリティーのことを思うと、アメリカ軍の“殺人部隊”の約半数を、これらのマイノリティーが占めています。残りの半数は、だいたいが、貧しい白人です。この事実は何を意味していますか?先ほどから述べているシェリーの言葉を思い出してください。

私は、機械工学の専門家として、アメリカでは、工学技術と、人殺しや破壊のための設計と物造りとが巨大な輪を形成していることに苦しい思いをしています。私はアメリカの戦争中毒が治癒し、我々の工学技術が、帝国や戦争や暴力のためではなく、人類の希望をかなえるために貢献する日が来ることを夢に見ます。「戦争の支配」ではなく、「法の支配」の下に、リーダーシップを取る「アメリカ」を求め続けます。

日本国憲法第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。